オリンピック招致失敗について

東京がオリンピック招致に失敗した。

ひとつは住民の意欲が低かったこともある。ご多分にもれず我が家も最初からオリンピック招致反対派であった。客観的に見てリオの南米最初のオリンピックという理念を上回る何かを、2度目の東京が提示することは難しいということもあった。でも何よりも大きな理由は、リオにとって必要な程、我々はオリンピックを必要としていないと思ったからだ。

日本は1964年の東京オリンピックをてこにして、高度成長の道をひたすら突き進むことになる。多分日本の成長にオリンピックが果たした役割は、それなりに大きいものがあったのだろうと思う。だが、もはや日本も東京も、当時とは異なった豊かな国であり都市である。日本には貧窮が増大しているではないか、という声もあるかもしれないが、日本における多くの「貧窮」は世界的に見れば貧窮のレベルに入らない、単に金持ちに対する相対的な所得の低さである。世界には日本とは比較にならないような貧窮が存在するのであり、そのような国にこそオリンピックという「てこ」を使ってほしいと思うのだ。

IOC委員が最後の投票でリオを圧倒的に支持したのは、既に機会を与えられて発展した国より発展途上国にチャンスを与えるべきという、公平性という感覚が大きかったと思う。歴史を思えば、1936年に(後に太平洋戦争により幻となる)1940年の東京オリンピック開催が決まったのであるが、当時の日本代表嘉納治五郎のIOCに向けての名演説の要旨は、「東京で開催すれば(貧しい)近隣のアジアの各国が参加できる。アジアの国々にも参加の可能性を与えて欲しい。」という、公平性と利他主義に立脚したものであった。

明らかに今日本に必要なものはオリンピックではなくて、ちゃんとした政治のリーダシップである。さらに言えば、国民において現実を直視する勇気と変化を恐れない心持である。

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