われ思う、故に、われ間違う

この前、天才とは常人にまねの出来ない魅力的な間違いをする人種だと書いたのですが、そのような認識はやがて間違いそのものの歴史への興味へと向かわざるをえないのです。

ジャン=ピエール・ランタンの「われ思う、故に、われ間違う」(産業図書)は、科学の歴史がほとんど誤謬の歴史でもあったということを、様々な実例と共に教えてくれます。また、偉大な発見、発明が多くの場合、間違った仮定、理論の追及の過程の中で生まれてきたことを次々と明らかにしていきます。

でも、昔の科学者達が犯した誤謬を単に誤謬として淡々と羅列していくランタンの視点にはちょっと疑問も感じます。なにより、近代以前には我々が当然の前提として受け入れている数学的基盤も、体系化された科学知識もなかったのです。科学者たちはかすかに見える明かりをたよりに手探りで、それぞれに孤独な探求を続けていたのですから、我々がそれを単なる「誤謬」と呼ぶことが適当であるとは到底思えないのです。

もちろん、ランタンもこ本の最後には誤謬が科学の様々な進歩の不可欠の要素であったことに言及し、誤謬学とで言うべき学問の創設を提唱するという、形の上では前向きな主張で終わっています。でも問題は、この本には誤謬と創造の間の本質的な関係性についての思索が欠けていることです。

この本は、偉大な科学者達が実はこんなにとんまで、まぬけな間違いをおかしていました、という一種の暴露物としては結構面白いかもしれません。でも、大胆にもデカルトの有名な言葉をもじった標題を付けるからには、それなりの哲学的考察があってもしかるべきではないでしょうか。

題名につられて読んでしまいましたが、完全な題名負けです。どうも最近、本への嗅覚が落ちているようです。次はやっぱり本来の日本の美についての探検にもどることにします。

「われ読む、故に、われ間違う」、ということはないと思いますが・・・。

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