コミュナルなケータイ

メディアとしての携帯電話には少なからぬ興味があるので、題名につられて読んでみました。

著者の水越伸はメディア論が専門のようで、携帯事業者とのコラボやワークショップでの実践的な活動を通じて新しいメディアとしてのケータイ(あえて携帯電話とは読んでない)の可能性を、追求している人らしい。

紹介されるプロジェクトは、例えば福岡の山間部の小学校で子供たちがケータイで協力し合って「世にもまれな地図」を作る試みとか、北欧と日本の研究者に「典型的なケータイ」の利用風景を演じてもらう試みだとか、携帯写真から別の携帯写真、それから次へと自由な連鎖を作っていく「ケータイ・カンブリアン」とか。

要するにケータイが使われる状況に揺さぶりをかけて、そこから新しいメディアとしてのケータイの新しい知見を得ようとしているらしいのだけど、まずその前提としてのメディア論がちょっとうさん臭い。というか彼の議論は、ほとんどマーシャル・マクルーハンとロラン・バルトを焼きなおしたものに過ぎないし、なにより彼独自の新しい知見というものがない。

水越伸はメディア論の専門家でケータイの業界でちょっとした有名人らしいのだけれど、ケータイに関するメディア論ってまだこの程度なのか、ということにまずショックを受けてしまいました。

水越伸の主張は要するに、次のようなものです。ケータイはメディアとして様々な可能性を持っているのだけれど、携帯事業者とメーカーの寡占的な体制の中で、民衆の参加が拒否されたまま、また文化との相互作用も見出せないままに止まっている。この状況を打破してケータイの新たな可能性を見出すためには、実践的で批判的な活動が必要であり、民衆の活動を通じて新しいデジタル民芸を創成しよう。

これって、一昔前のマルクス主義者の言説と本質的に何一つ変わらないですね。

さらに柳宗悦が創始した民芸活動が結局エリート主義に陥ったことを批判し、民衆が主体の新しいデジタル民芸を作ろうといいつつ、この人の議論は民衆とそれを主導する側の人間とを明確に分けているのです。つまり、民衆はアカデミズム(水越伸)が主導しなければ、新しいメディアを作ることなどできないのだと。

僕は、彼の仕掛けるプロジェクトがあろうとなかろうと、ケータイの利用の可能性は今後様々に広がっていくと思います。そして、僕が期待するのは、水越伸のようなアカデミア側の「実践的な」仕掛けでも、行政の施策でも携帯事業者やメーカーのプロダクト戦略でもありません。

子供たちです。

この本で紹介された福岡のプロジェクトで子供がケータイを土の中に埋めたという話がでてくるのですが、そのような予測不能で奔放な子供たちの行動の中にこそ、メディアの未来があるのではないでしょうか。

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