年末はブログも更新できないほど忙しかった。その中、僅かな時間を惜しんで読んだのが、斉藤環氏の「原発依存の精神構造」である。斉藤環氏は精神科医の立場から日本が抱える問題について、様々な発言・発信析を行なってきており、その卓越した分析には傾聴すべきことが多い。だが、斉藤氏は同時に脱原発を一貫して主張してきた人でもある。
僕も311の直後は反原発的なメンタリティに囚われていたが、その後様々なデータや資料、他者の発信する情報を自分なりに咀嚼、分析した結果、現在では脱原発というような一神教に明確に反対する立ち位置にいる。もちろん、僕も日本が今後新しい原発を作るというオプションについては、コスト的にも国民感情的にも現実性は薄いと考えている。僕が批判しているのは、日本が置かれたエネルギーや経済の現状を無視して脱原発を推進するような、「脱原発=正義」的な傲慢な物言いと挙動にある。
さて、斉藤氏の著作だが、まず行われるのがラカンやドゥルーズの理論をもとにしたフクシマ(著作ではカタカナの上に取り消し線が惹かれる)の象徴性というような議論である。ここはさすがに手馴れたもので、教科書的な説得力がある。斎藤氏はそれをふまえてフクシマは人災であり、(911と異なり)予防可能であるために、日常性を書き換え、我々を通常の経験から逸脱させ、時制を混乱させ、事実の受け入れを不能にすると分析する。そしてそれが予防可能であるために原則として否定されなければならない。そうでなければ我々の時制は混乱したままだと。つまり原発事故の予測不能で確率的な性格が問題の本質であるという。
そうだろうか。それなら津波の被害は予測不能だったのだろうか。僕は違うと思う。むしろ、歴史をたどれば津波は何度も東北を襲っている。そして行政は津波の被害から免れるために、一部に巨大な防潮堤なども建設して対処しようとしてきた。だが津波の巨大性について見積りが甘かったため、防災対策が全く機能しなかったのが事実ではないか。つまりリスクとは常に確率的なものなのである。我々は自動車事故、病気、ケガ等、1秒、1秒、様々なリスクにさらされて生きている。それらのリスクから確定的に逃れるためには、文明そのものもから逃避するしかない。医療システムやエネルギーシステムを含めた文明のめぐみから遮断されれば我々は、結果としてさらに大きな生存リスクに直面することになる。
我々は常に確率的なリスクと共に生きているのであり、リスクと言う点で原発と津波に本質的な差はない。そして量的には圧倒的に津波のリスクが高く、はるかに危険である。問題は、確率的か確定的かという点ではなくて、どちらがより恐怖を喚起するかという点にある。その意味で、放射能という不可視の怪物が撒き散らす恐怖こそが問題の本質なのだ。
以前何度か取り上げた1950年台の米国SF映画「禁断の惑星」では、ある星に居住する博士と娘、そしてそこを訪れた宇宙船の乗組員を見えない怪物が攻撃する。実はその怪物は博士の潜在意識が作り出したものであり、博士の娘を奪われるのではないかという恐怖とその星の先住民の未知のエネルギーとが結びついて巨大な怪物となっていたことが判明する。すべてを悟った博士は、一人その星にとどまり、エネルギーを爆発させ星と運命を共にする。
この映画は、不可視のエネルギーの恐怖を扱った点で予言的だ。往々にして恐怖は我々の判断を狂わせる。映画はファンタジーであり、予言や運命を語るものだ。だが、我々のエネルギーの今後を決める時は1か0かでなく、常に科学的知見に基づいた「量という現実」を語らなければならない。そして、その内容には確率というパラメータが常に含まれる。
脱線したが、この本は時系列となっており、後半では著者の立ち位置がかなり変化する。当初盛んに流された低線量被曝のリスクや、被害情報が実はデマを多く含んでいたことを著者が理解したため、脱原発ではあるものの、イデオロギー的な発信が少なくなっていく。そのあたり、過去の記述を訂正せずに、そのまま記載しているところは著者の見識の高さを示していると思う。
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