事件は構造を明らかにする

どちらかと言えば楽観主義の僕も、最近は少しメランコリックな気分だ。巷で流行っている原発が吹き飛ぶという予言や終末論を別に信じている訳ではない。原因を突き詰めていくとどうしても、あまりに日本的な「事件の構造」が浮かび上がるからだ。

今回の原発の事故には様々な要因がある。500年に一度の地震と津波が、一気に襲ったという不運もあるが、やはり事故の拡大には人災的要素(ヨウ素と変換されるのが悲しい)が大きい。

今回の事故を大きくした要因が、ベントと注水の遅れという初動のミスにあったことは明らかだ。東電と政府はどちらも迅速な事態の収拾を行うことができなかった。しかし最大の要因は、津波に対する設計上の不備だろう。これについては、保安院と原子力安全委という「悪玉」への非難が可能で、実際そのような声が大きい。僕もかれらの責任は極めて重大だと思う。

だが考えて見れば、原子力発電システムの安全性への神話を支えていたのは、まことに日常的な日本の利権構造である。「リスクがない」と言う推進側と「リスクはないはずだ」と主張する反対派の共犯関係の結果として、リスクも危機も想定してはならないという「空気」が形成された。

それは我々の身の回りに存在する空気と、本質的に同じものである。空気を読めない人をKYと一度でも揶揄したことのある人は、この原発事故における一方的な告発者であることはできないのだ。

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