陽水の快楽

「陽水の快楽」は1986年の竹田青嗣 による陽水論です。

・・・しかし重要なのは、陽水の音楽が、欲望の純粋さや過激さに固執して、世俗との対立的な価値を歌いあげるのではなく、むしろ、あの零落の避け難い道すじの中で、そのつど、エロス的欲望の可能性の極限を見出そうとし、まさしくそのために、自分の欲望に対する最も深いめまいを鋭く感じ取っている、ということなのである・・・

ここで竹田青嗣は陽水の天才性を、西洋哲学の知見を総動員して明らかにしようとします。竹田が語るのは、陽水が喚起する「めまい」であり、ロマン的欲望の死であり、いわば現代の実存的身体と化した陽水です。

竹田はハイデガー、フッサール、キルケゴール、バタイユ、サルトル、フロイト、バルトの知見を次々と繰り出し、陽水に接近します。つまり竹田は陽水を通じて自身の実存主義的哲学を披露している、ということなのですが、これも陽水なればこそ成立する試みだとは思います。

僕は竹田の哲学には特に共感も覚えなかったのですが、なぜ僕が陽水に共感し、なぜさだまさしに共感できないのか、という単純な疑問には答えてくれたように思います。竹田はさだまさしにおける憧憬が、現実世界の中で儀礼化され、社会の中で飼いならされたものであることを、明確に述べていました。

以前、清水みちこがピアノの弾き語りで、陽水は短調と長調がはっきりしないのに、突然終わってしまう、と鋭い観察で歌っていました。作曲という側面でも陽水は常に境界の上に踊る芸術家であり、まれな天才であることに疑問の余地はありません。

4件のコメント

  1. わぁ、勉強になりました。
    私は単純に陽水は、時には人の心のどろどろなまでにむき出した本能を歌にし、
    さだまさしは女の子受けするまろやかな曲作りと思ってました。
    どちらも好きですけど(笑)

  2. 昨年、ギターを購入し、時々陽水を弾いてます。正確には、弾いている気になってます。ハイデガーを持ち出すまでもなく、陽水の歌詞はすごいと思います。

    ところで最近山崎ハコも、はやってますね。少し前六本木でコンサートやってました。

  3. 山崎ハコ懐かしいですね。
    陽水はギター弾きたての頃、良くコピーしてました。
    もしも明日~何とかって奴、
    彼女の前でこれを弾き語りするとイチコロです(笑)
    時間とお金に余裕があれば、
    東京に行ってギターでお遊びしたいものですね。

  4. ぜひギターを抱えて(抱えなくてもよいですが)東京に来てくださいね。

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