表徴の帝国

アート

日本という異境に魅せられた探求者といえば、やはりレヴィ=ストロースと並ぶ構造主義のスーパースターであるロラン・バルトの話をしない訳にはいきません。

「表徴の帝国」はハーンが松江へと旅立った1890年から約80年後に書かれたロラン・バルトの日本旅行記です。バルトは、日本料理、パチンコ、包み、相撲、文楽、俳句などを例にとって、日本文化における意味作用に関する考察を進めていきます。

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バルトは言います、私は日本に対して「ひと目ぼれ」をしてしまった。・・・日常生活・汽車・バーで私が出会ったことを通して、日本を読む・・・特に読むという言葉を使う・・・ことを強いられた。日本を一種の本・テキストとして読まざるをえなかったのである。つまり、日本語を知らないが故に、密林で出会ったすべてのことに意味を補充してかからなければならない人類学者のように行動せざるを得なかった。

外来者の異境へのまなざしというものは、それがどんなに愛情に満ちたものであったところで、「異境」の住人にとっては常になにかしら迷惑で、思い込みの産物だと思えるものです。

「表徴の帝国」でバルトは日本人が考えたこともなかった様な日本、空虚をその身体に内在する日本を描き出します。しかし作者や作品という概念を解体し、インターネットにおけるテキストの自由な連動性を正確に予言していたバルトは、西洋的一神教を揺さぶる力を有する全く異なった文化体系を、日本に見るのです。

バルトが記号論的に日本文化を分析する様は鮮やかですが、彼だけに見える幻想の帝国を編み上げたとも言えます。

しかし、日本の将来に対する以下の言葉は、80年前、ラフカディオ・ハーンが日本に示した思い・・・失われつつある美しさと様式に対する愛情・・・と驚くほど似通ったものです。

日本の将来については、消費社内のなかった時代に創られた生活様式が、技術の発展を通して・・・たとえ社会主義国になっても・・・存続することを望む。日本の発展が生活様式を破壊するとすれば、私にとってこれ以上悲しいことはない。なぜなら私の愛したのはこの生活様式なのだから。

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