土門拳の「古寺を訪ねて」

読んだのは小学館文庫のポケットサイズのものです。土門拳の代表作の古寺巡礼シリーズからの写真や文章が多かったのですが、ちょっと複雑な気分になりました。この感覚は以前、いけばな草月流第三代家元で、映画、陶芸、書や竹のインスタレーションなど、多彩な創作活動を行った勅使河原宏を、埼玉県近代美術館が企画展で特集したときに受けた感覚と似ています。

この二人に共通するものとは何かというと、それは時代の先駆者であったということと同時に、そのスタイル・技法が一般の人にほぼ完全に還流してしまったということです。土門は写真、勅使河原はいけばな(それ以外も多いが)と、その表現素材は異なるものの、彼らの生み出したスタイルは、一般の人々に好んで模倣され、ある種の上級者スタンダードとなりました。

例えば土門の有名な法隆寺遠景ですが、土門がカメラを構えた場所に仮にアマチュアが出向いて、同じ時期、同じ時間に同じ絞り値と露光時間で撮れば、気候の偶然の差はあるにせよ、確実にそれらしい風景が撮れます。勅使河原は竹を素材としたインスタレーションを生み出しましたが、それは今では常識的な技法となっています。かれらが先駆的な芸術家であったことは間違いないのですが、幸か不幸か、彼らの作品は模倣が容易であったため、使われた技法は瞬く間にアマチュアの標準となり、今ではオリジナルの方が、ある種のアナクロニズムのような感覚を生み出すに至ったというわけです。

和辻哲郎の「古寺巡礼」を読むと、今でも新鮮な感動があるのですが、土門拳の「古寺」はアマチュアリズムの中に拡散してしまいました。もちろんそれが土門の先駆性、芸術性を否定するものでないことは、確かなことですが。

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