文明の生態史観

梅棹忠夫の「文明の生態史観」(中公文庫)

1950年代に書かれたあまりに有名な著作なのですが、同名の著作そのものはほんとに短い小論文でした。関連する複数の著作と合わせて一冊の本として刊行されていました。

当時はトインビーの文明論に対抗するような文明史観を提供したことで話題となったらしいのですが、一言で言えば文明論として生態学のような機能的な方法論の適用が有効であるということを論じたもので、構造的な文明論というような性格のものでした。

今では構造主義的な考え方とか相対的な文明観というものがあたりまえとなっているので、今読んでみて、さすがにこの論文の革新性というものは感じられなかったです。でも考えてみれば僕の出発点であるレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」も丁度、同じ時期に執筆されたのですから、その頃に社会学の構造的な理論的枠組みが定まったのであり、トーマス・クーン言うところのひとつの新しいパラダイムが生じたということなのでしょう。

「文明の生態史観」そのものはあまり面白くなかったのですが、その前後に書かれた著作はアジア各地への先駆的なフィールドワークを踏まえての議論なので、結構興味深かったです。また50年前という時代の感覚がちょっと異質な印象を与えてくれます。例えばインドから帰って、梅棹は今更ながらに日本は寒いと書いているのですが、地球温暖化が進行した現在、成田に降り立って日本が寒いなどと感じる人はほとんどいないでしょう。

面白かったのは、梅棹が「文明の生態史観」を発表した後の反響が「日本論」としてのものであり、壮大な文明観としての構造に対する批評がほとんどなかったことにがっかりしたというくだりです。しかし梅棹は、これが日本に固有のナルシズムであると論じる訳ではなくて、東洋を西洋でないところとしか認識できない西洋的思考と同類であると論じています。つまり梅棹は、比較文明論的立場を貫いた徹底した文化人類学者でもあったということです。

「文明の生態史観」は「悲しき熱帯」のような格調高い名文でもないし、エキゾチックな冒険的フィールドワークを記しているわけでもないのですが、梅棹の自由な発想がとても平易な文章で書かれており、50年の時代を超えて楽しく読むことが出来ました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました