民族学者の発想

梅棹忠夫の「民族学者の発想」(平凡社)

この本は民族学者である梅棹忠夫が、自身が当時(1990年代前半)館長を務めていた国立民族学博物館の教官たちと対談し、民族学の諸課題について様々な切り口で議論したものを本にしたものです。国立民族学博物館(民博)は博物館であると同時に、国公立の大学のネットワークに組み込まれているので、専任教官がたくさんいて民族学の研究を行っているのです。

民博は組織的には、井上光貞が初代館長を務めた国立歴史民族博物館(歴博)や梅原猛が初代館長を勤めた国際日本文化研究センターなんかと同じく、大学共同利用機関法人・人間文化研究機構が管轄する5つの組織のひとつです。ちなみにこれらの研究機関はそれぞれの研究分野のデータベースを持っており、その一部は公開されています。僕の興味の範囲だと例えば、歴博には錦絵のデータベースがありますし、国際日本文化研究センターには近世風俗図会のデータベース、そしてこの民博にはネパールのデータベースなんかがあって、地球温暖化以前のヒマラヤの写真を見たりできます。

梅棹は僕が知的興味をかき立てられる領域である民族学では大変高名な人ですけど、なぜかこれまで著書を読んだことがありませんでした。今回読んだのは対談集という形の本だったので、梅棹個人の思想の特徴とかはあまり良く分りませんでした。民族学はそもそも世界の諸民族の文化と社会を比較研究する学問なので、ある民族のある習慣をどのような枠組みや体系で捕らえるのかという、問題定義的なところが重要かつ面白いのです。

例えばカラオケについて、梅棹は「今後は自分に対する芸能が主流になる」ことを予言したが、その典型的な現れであると。そしてそれを敷衍して、文芸もやがてそうなる運命なのであり、例えば同人雑誌は「活字のカラオケ」であると。そしてさらに日本の文化における師匠と弟子の関係を論じていくのですが、この芸能に関する議論が中々面白い。例えば戦国の世の中では実用の技術であった剣術が、太平の世になりいつのまにか剣道へ、つまり術から道に変化していく。

中でも面白いのは、彼ら学者の書く論文というものが、その種の性格をもっている、と言っていることです。つまりかれらの専門の論文なんてほとんど2、3人しか読んでくれないというようなことが起こる。要するに極めて少数の読者を想定した仕事なのであり、書くことに意味がある同人誌の先駆けではないか。このような議論ってある種のユーモアを感じるし、固定観念にとらわれない自由な考え方が根底にある。

もっとも、この結論についていえば、現在では学術論文もインターネットで査読されるような時代になってきたので、梅棹みたいな大家の論文が少数の人にしか読まれないというようなことはないのですけど。

梅棹には自由な発想者としての存在を感じたので、そのうちに彼の著作として有名な(技術論である「知的生産の技術」ではなく)「文明の生態史観」を読んでみたいと思います。

p.s. ブログの体裁をちょっと変えました。ヘッダーの大きな画像を複数用意し、アクセスする度にランダムに切り替わるようにしました。またメインのコンテンツを左から右に移しました。

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