日本人の身体観

養老孟司の「日本人の身体観」を読みました。

この本、面白かったかというと、ちょっと微妙です。というのも最初の部分が、日本において死体が隠蔽されている状況の批判なのですが、その論旨はもっともだと思いつつも、いたるところで解剖学者の怨念のようなものが溢れているのです。

彼の立場は基本的に脳と身体の一元論であり、死者をモノ扱いする現代社会を解剖学者、脳科学の立場から強く批判しているのですが、皮肉なことに解剖学者は死者をモノ扱いしているに違いないという思い込みが、世間にあるといいます。

そうではなくて解剖を行うからこそ死者はモノとは違うことが分かるのだと、養老は言いたいのですが、そののところがどうもピンとこない。というのもこの本は脳と身体について、過去の様々な見解を参照しつつ考察をしているのですが、それが脳科学的な研究からの帰結でなくて、ほとんど純粋に思想史的あるいは哲学史的な考察の結果からなのです。

彼はまた日本が江戸以降、彼言うところの「脳化」して、身体を忘れてしまったと批判するのですが、文明って結局脳が作り出すものだし、それじゃ脳と身体の関係をどのようにバランスするべきなのか、という肝心なところが良く分からない。

右脳、左脳の議論とかは素人の議論なのかもしれないけど、そういうところも含めてやっぱり養老に期待したいのは、もうひとつの思索的文明論ではなくて、脳科学者としての知見ですよね。

ところで、僕がお気に入りのWiredVisionという科学系WEBを見てたら、神経の専門家による脳卒中レポートという興味深い記事がありました。ある科学者が脳卒中で左脳の機能を失う体験をするのですが、その過程で、自分自身と周りにあるものが別物であることを認識する能力を失っていく。この科学者はその過程をつぶさに観察し「私は私だ」と主張する声は左脳に存在し、自分と周りにある景色とが別物であることを教えてくれるのも左脳であると結論するのです。

自分自身が崩壊する過程を冷静に観察することができる科学者ってすごいと思いますが、なによりこの短い記事の中には、哲学の至上の命題である「存在」って事柄に迫る科学的な知見、体験がある。

それにくらべ養老の議論は、これまでの哲学者、思想家の思索のパラダイムを越えていないと思う。この本は1996年の刊行だから、多分その後彼の立場も変化しているのではないかな。近年のインターネットにより最大限に拡張された人間の意識、存在の感覚について、ネットワークと脳の類似性から議論するなんてことも彼の頭脳なら、多分お茶の子さいさいだと思う。養老の本を読んだのはこれが初めてなので、推測にしかすぎないけど、その程度の思想的展開は既に行っているのでしょうね、多分。

今回、養老孟司って人は東洋的な身体を西洋的な思索の中で議論する、まことに矛盾に満ちた存在であることを知りました。意外に饒舌で粘液質な人だということも分かりましたけど、この本について言えば、あまり面白くはなかったですね。

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