古寺巡礼

「イタリア古寺巡礼」を読んだら結構面白かったので、その原点である著作、和辻哲郎が奈良付近の古寺を巡ったときの印象を記した「古寺巡礼」を読みました。

大正7年ですから、ほぼ90年前の旅行記になります。和辻は後に、風土に着目した独自の視点から西洋と東洋についての思想体系を生み出した哲学者ですが、僕の知識はまあその程度で、実際の著作に触れたのは実は「イタリア古寺巡礼」が最初でした。

「古寺巡礼」は和辻がまだその思想的展開に至る前の若い自由な感受性で、日本の古寺、仏像をつぶさに見ていくのですが、僕が感銘を受けたのは、和辻の歴史、美術に関する博識(これは正真正銘にすごい)ではなく、その芸術的考察(これもとてもスリリング)でもなく、彼の哲学者らしからぬ幻視能力です。

例えば、和辻はひとつの伎楽面から考察を始め、大仏開眼の時の舞楽のありさまを推測するのですが、ギリシャ、インド、西域の国々そして中国を介した様式の伝播をあたかも見てきたように視覚化していくのです。

思えば、僕の好きな梅原猛も、司馬遼太郎も、まるで時空を超えたフォトグラフィックメモリを有するかのような偉大な幻視者です。和辻は実は後日に若き日の感受性と空想にまかせて書き記したこの「巡礼」の書き直しを試みるのですが、結局大きな変更をすることなしに再刊することになります。岩波文庫版の最後には一部書き直した部分のオリジナルのテキストが掲載されていますが、若さゆえの直感、空想がすばらしい。

梅原猛も若いころの著作で様々に幻想した結論を変えることがあるのですが、それで以前の著作の価値が減ずるというものではありません。偉大な著作というものは結論ではないのです。幻視者のみが生み出す自由で夢幻的なテキストこそが、偉大な思想の源泉だと思うのです。

和辻の「古寺巡礼」は後の古寺や仏像巡礼ブームの出発点となった著作ですが、それ以降に生み出された数多くの亜流の著作、便乗した雑誌類が足元にも及ばないすばらしいテキストとして今でも楽しむことができます。

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