僕は本は図書館か書店で手にとって選ぶことにしており、書評というものはほとんど読みません。ただ、日経の日曜日の書評ページに「半歩遅れの読書術」という欄があり、前回のブログでも触れた田中優子が現在コラムを書いており、それだけはこのブログの趣向と見事に一致するので読んでいるのです。
そこで田中優子が面白いと紹介していたのが、木下直之の「世の途中から隠されていること」(晶文社)でした。木下直之はかって存在し、人々の記憶から消えていった様々な事物(それらは今存在するものも存在しないものもある)、例えば日清戦争の祝勝のために日比谷に作られたハリボテの凱旋門、福岡市の元寇記念碑(現存)、豊臣秀頼によって方広寺に作られた大仏(寛文の地震で倒壊)とかを、忘却の彼方から引きずり出し、それらがかつてメディアとしてどのように機能していたかを記述していきます。
木下はさらに現代の「美術」が美術として形成されてきた歴史的経緯を問い、かって浅草にあった生人形の見世物小屋などに、忘れられた美術のもうひとつのありかたを見出します。
「端的にいうなら、造形の問題とは、誰が何をどのように描いたという問うことであり、美術書ばかりでなく現行の美術展も、ほとんどこの関心の上に成立している。美術展会場の壁に目の高さに一列に等間隔に吊るされた絵画は、それらが間違いなく実物ではあっても、美術書の図版にかぎりなく似通っている。美術展と会場で販売される図録とは、たぶん主催者の思惑以上にお互いを補強しあっているはずだ。」
「それは美術という人間の営為の一面をのみ取り出して眺めるようなものだと言わざるを得ない。あるいは、作者と作品を過度に特権化するものだと言わざるをえない。それを制度化した美術館ばかりでなく、向上も鳴物もない会場を訪れてじっと絵画を見つめるわれわれの行為もまた、この意味で歴史的産物なのである。」
正直言って、僕は木下が再発見した「世の中から隠された」事物のリストには、それほど興味を感じませんでした。一方で、身体性から切り離され制度化された「美術」への木下の懐疑には、深く共感するものです。なぜなら、その懐疑は過去の見世物的事物への単なるノスタルジーではなく、それが身体のパフォーマンスにより成立していたという点において、まさに現代美術につながる普遍的な問題意識を含んでいると思うからです。
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