江戸のノイズ

櫻井進の「江戸のノイズ」(NHK Books)を読みました。

「監獄都市の光と闇」と副題が付されたこの本は、近年とみにエコロジカルで文化的な理想郷として評価されている「江戸」が、実は権力の監視が隅々まで行き渡った監獄都市であったということを、様々な角度から実証したもので、なかなか刺激的な本でした。

「桜と富士山。このふたつは、日本人にとってきわめて見慣れた風景であり、日本的美意識の代表的なものと考えられている。しかし、こういった風景を美として認識できるのはわれわれが日本的美意識という感性の共同体の内部に存在しているからではないであろうか。」

櫻井は、桜と富士山が明治以後の国民国家の正当性を作り出す装置として機能してきたことを言います。そして網野善彦によって明らかにされた世俗の権力から自由であった「聖なる避難所=アジール」という存在もまた、網野の言うほど自由な空間だったわけではなく、権力の介入により様々な歴史的変容を遂げてきたことを明らかにします。

櫻井は監獄都市の中に囲い込まれ、抑圧された人々の下意識が変容し氾濫する無意識として表出される様を、システムに対する「ノイズ」と捉えています。このノイズが国学者たちの思想の中に姿を変えて蘇っていき、やがて日本のイデオロギーを形成していくのだと。

副題からも分かるとおり、櫻井の主張は基本的にミッシェル・フーコーの議論を基にしていますが、驚くほど広範囲な古今のテキストを参照し、整理した形で批評を加えています。ミシェル・フーコーの応用問題としては、ほとんど非の打ち所がありません。

でも、果たして日本の美意識という論点をシステム的な考察だけで完結させることができるのでしょうか。たとえば、櫻井は「江戸の想像力」の田中優子の視点が、無垢の江戸を前提としていると批判するのですが、そもそも当時の世界最大の都市だった江戸が都市としての機能を維持するためには、権力の様々な介入なしにはありえなかったと思います。つまり「監獄的」要素は江戸が江戸であるためには、必須の要件であり、その上に「無垢の江戸」的文化が花開いたのであり、そのふたつは決して二者択一ではなかったと思うのです。

言い方を変えれば、権力的な社会システムとしての江戸を見る「野暮」な櫻井の視点の対極にあるのが、スノビズムの極致としての江戸を見ようとする田中の「粋」な視点だということです。

櫻井進の博識と議論の確かさには敬服しますが、江戸の文化を「ノイズ」の延長線上に置くところに、彼の美に対するスタンスが表れています。江戸を異なった視点から分析する二人のうちで、僕が評価するのはもちろん田中優子であることは言うまでもないことです。

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