石川忠司の「現代小説のレッスン」 講談社現代新書
どちらかというとノンフィクションが好きで、現代小説を読むことは少ないのだが、興味がないわけではない。小説ならば新しいスタイルとか技法とか、要するに小説というより、メタ小説に興味があるということなのだ。
石川忠司の「現代小説のレッスン」は2005年発刊だから少し古いのだけど、現代小説の傾向が分ると思って借りてしまった。石川忠司という人は良く知らないが、この本ではかなり辛口の批評を行っている。特に龍と春樹のふたりの村上の小説の分析が興味深い。特に秀逸なのが、村上龍論である。
石川は村上龍の小説において、人間の内面と知覚が分離していることを言う。そして村上の特徴は、彼が読者に対してツアーガイドとしてふるまう、つまり読者=ツアーに参加した客を引き連れ、様々な景勝地を訪問しながら、そこで当の場所にまつわる事項や事跡の解説=描写を行うのだと指摘する。村上龍の小説の歴史的位置づけの議論とは別に、これはとても的確な村上龍論だと思うし、彼の小説の本質をずばりと表現している。
問題なのは、村上春樹の方だ。村上春樹の小説における喪失感とか罪悪感については、色々に指摘、分析されてきたことろだが、石川の特徴は村上春樹の小説をノワール=悪漢小説だとみなすことにある。例えば彼の「風の歌を聴け」から「1973年のピンボール」の過程で主人公のメランコリーの原因が彼の恋人の「直子」の自殺にあることが明らかになるのだが、石川は直子の自殺は主人公のメランコリーの原因どころか、後付のでっち上げだと看破する。
フロイト的な解釈では、メランコリーは実際の犯罪の結果などではなくて、犯罪者にはあらかじめ罪悪感が根を張っていて、次にこの罪悪感を自分が実際に処罰することを打ち消す目的で、現実の犯罪が行われる。つまり、村上春樹の「僕」は彼の犯罪の原因を求め、彼の恋人の直子を手始めに「殺」し、次に親友の鼠も殺し、・・・・。石川はそもそも村上春樹の小説にはきな臭いダーティな雰囲気が漂っていたという。結局石川は村上の語り口から彼の小説をノワールと断定するのだが、はたしてそうだろうか。
僕は村上春樹の小説はノワールというより、主人公が問題を解決しない奇妙なハードボイルドじゃないかと思っている。喪失感とは何かを失ったときの感情だが、村上の主人公は何かを失ったりしない(これはまさに石川の指摘どおり)。それどころか「僕」の悲劇は何かを得て失うというサイクルから切り離された存在であることなのだ、主人公の喪失感は何かを失ったことによるものではなく、構造的に何かを失うというサイクルから疎外された感情=一種の絶対的な喪失感なのではないか?
結局、絶対的な疎外状況において人間の無力感を問題を解決することができない主人公を(スタイル的にはありえない)ハードボイルドな語り口で描くというのが村上春樹という作家の特異なスタイルであり、社会における個人の絶対的な疎外という状況が世界に蔓延してきた結果として、彼の小説はある種の普遍性を得るに至った・・・・。
というように喚起された僕の思考の当否は別として、切り口が面白く楽しめる本だったのは確かである。
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