眼の隠喩

都市を語る方法の歴史から、身体一般についてそれぞれの時代がなにをイメージしていたか、身体の歴史を浮かび上がらせることも出来るかもしれない。都市を身体によって読むなら、私達は身体に「目の隠喩」を見出しているし、逆の場合には都市そのものを隠喩的な視線として使うことにもなろう。「見る」とは、すでに何らかの媒介(眼の隠喩)によって、ある事象を隠喩的な意味を発生させるものに構成することにほかならないのである。

引越し後の片付けで、無くしたと思ってた本が1冊出てきました。多木浩二の「目の隠喩」です。文庫本なのですが、多木の衒学的、博覧強記的な知識がぎっしりと詰め込まれ、かなり読み応えがありました。

「まなざし」という言葉が使われた時、ほとんどの場合は隠喩としての用法なのですが、多木は、全てのまなざしが「文化」、つまり世界を構成する様式にほかならないことを、実に丁寧に解説します。

多木は、あるときは旧世界から新世界(アメリカ)へのまなざしにおいて、あるいは17,8世紀頃に欧州で流行した「人形の家」の内部への視線として、さらに権力の舞台としての「王の寝台」として、あるいはブルジョワジーの肖像として登場した写真の記号学として、周到に考察を重ねていきます。

正統的な西洋思想のパラダイムに則った重厚な本ではあるのですが、僕にはちょっと遊びというか、ゆらぎのような東洋的な要素があまりに欠けていて、最後にちょっと疲れました。

僕はむしろ多木が提示した様々なまなざしを議論するトピック、例えば「人形の家」でも「王の寝台」でも良いのですが、それぞれを「隠喩」という主題から独立させたアンソロジーとして構成した方が、楽しかっただろうと思いました。単に本を読むという楽しみから言えばの話ですが。

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