ハイデガーとサルトルと詩人たち

今では死に絶えた実存主義に関わる書物を、先週に引き続いてまた読んでしまいました。市倉宏祐の「ハイデガーとサルトルと詩人たち」(NHKBooks)です。

なぜかというと、僕は環境問題やテロリズムで危機に瀕している世界に必要なのは、多神教的、モザイク的な世界観だと思う人間なのです。そしてそのためには先週読んだ「場所の現象学」にも色濃く漂っていた、西洋的、一神教的な宗教観の成立過程とか歴史的背景とかをもっと知る必要があると感じたからです。

でも、実はそうではなくてかつてレヴィ=ストロースが「野生の思考」による批判で致命的な打撃を与えた「実存主義」というものに、江戸の文明に共通するような、既に滅んでしまった古典的世界の美しさを予感したのかもしれません。どうもロラン・バルトの影響を強く受けているためか、僕は時代と空間を越えてテキストの快楽を探求するくせがついてしまっているようです。

この本、題名から主にサルトルと詩人についての考察かなと思ってのですが、結構延々とハイデガーからサルトルの哲学的思考の流れ、二人の思想的関連性と差異、歴史的評価などが細かに述べられます。その中でランボーやマラルメの詩が彼らの哲学的立場にとって、どのような意味を有したのかが解説されます。解説書としては丁寧で、読み応えはありました。

でも今回、「アンガージュマン」や「即自」などという化石のような言葉を見て、僕が美しさを感じたかというと、そうではなかったです。あたりまえのことですが、滅びてしまったからといって美しいとは限らない。それを美としてあるいは普遍として成立させるために必要な歴史的背景が、決定的に失われているのですから。

人は北斎の浮世絵やモーツァルトの音楽に接したときに、絵画や音楽はある種の普遍に達することができることを実感します。でもどうやら思想には賞味期限というものがあるようです。

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