古事記の起源

最近読んだ本:
(1)「古事記の起源」/工藤隆(中公新書)
(2)「中世日本の予言書」/小峯和明(岩波新書)

僕にしては珍しく最新刊を2冊読みました。いずれも新書です。

古事記について、これまでトンデモ系の本を含め色々な本を読んできたけど、その性格はあまりに複雑で、正直言ってどの本からも「これが古事記なのだ」という明快なイメージを得たと感じたことはなかったです。

単に神話として読むべきなのか、そうではなくて梅原猛のように、日本の美意識の源流のひとつである歌物語として読むべきなのか、あるいは、井沢元彦や関裕二の主張するような政治性の強い歴史書として読むべきなのか。

(1)の「古事記の起源」はこれまでの古事記研究に新しい方法論を切り開くものとして新鮮な感覚で読みました。そうか、「この手があったのか」って感じです。

本書はこれまでの古事記研究の方法論を体系的に分類し、それらの研究がもはや手詰まりの状態にあることを明らかにします。そして「原型生存型民族の口誦表現モデルから類推する」つまり、いまでも中国に残存する無文字文化の少数民族における歌掛け等の研究から、古事記の成立過程を推定するという、あっと驚くような方法を提案するのです。

はたして、そんなことが可能なのでしょうか。

その分析手法の妥当性について、浅学の僕がここで簡単に述べることなど不可能ですが、新書本にも関わらず見事と思ったのは、新しい手法の方法論的位置づけを非常に正確に定義していることです。本書では基本的な方法論を6つに分類しています。(カッコ内は僕の勝手な理解)
①純粋文献学的立場(津田左右吉的)
②文字表現の関係性から成立過程を把握(安本美典的)
③古事記にヤマト民族のアイデンティティーを見出そうとする立場(本居宣長的)
④記号論的あるいは構造論的研究(ロラン・バルト的)
⑤作家論的追求(梅原猛的)
⑥古事記登場以前の無文字時代におけるヤマト族古層の言語表現を、中国少数民族等の言語表現との比較においてモデル的に把握する手法(工藤隆的)

この最後の手法により、本書は古事記の主要なエピソードを次々に分析していきます。例えば、イザナキ・イザナミ神話は④の比較神話学的立場でギリシャ神話との共通性が分析されるのが通例なのですが、ギリシャ神話は既に原型性を失った段階であり、日本の最古層の文化を分析するには「新しすぎる」とされ、原型生存型民族から採取されたより古い段階の神話による解釈が施されるのです。そしてその分析は、なかなかスリリングです。

この新しい方法論での成果はまだ多くはないと思いますが、中国少数民族やアイヌ・オキナワの文化的独自性は日に日に失われつつある状況であり、いまやっておかなければ、という筆者の使命感が文章に感じられました。

(2)の「中世日本の予言書」は「ノストラダムス」的な予言書が日本では「未来記」と呼ばれ、中世以降一般的であったことを改めて教えてくれました。もちろん、予言書における全ての予言は事後になされる、つまりすべての予言書は偽書であるというごく当たり前の認識の下に書かれたものです。

日本の予言書で最も有名なものが、聖徳太子が書いたとされる「聖徳太子未来記」なのですが、もうひとつが中国六朝時代の宝誌和尚が書いたとされる「野馬台詩」です。宝誌和尚は観音の生まれ変わりとの伝説があるのですが、このブログで以前取り上げたロラン・バルトの「表徴の帝国」の表紙写真の奇妙な仏像こそは、宝誌和尚という仮の姿から現れる観音様を著したものです。この写真は何度見てもインパクトがあるので再掲します。

hyouchou_teikoku

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