今日は、レヴィ=ストロースの日本神話への思い入れに呼応して、老体に鞭打ち南九州への旅に出た梅原猛の「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」について。
梅原猛、この著名な哲学者、文学者、スーパー歌舞伎作者にして古代史の研究家は既に、日本の古代世界に、「隠された十字架」をはじめとする多くの独自の洞察を与えてきました。その過剰すぎる想像力のゆえに、時に神話に変幻な意味を吹き込み、新しい物語世界をさえ生み出してきました。
その刺激的で挑戦的な問いかけに対し、考古学はこれまで無視を決め込むか、文学者のたわごとと定型的な批判を繰り返してきたわけですが、神話から歴史へ切れ目なく続く世界でも特異な日本の古代史は、氏のような類まれな直感とレヴィ=ストロースが創始した人類学的方法論なしでは決して解明不可能な謎を秘めています。
日本の文化特に神話をこよなく愛するレヴィ=ストロースは、日本訪問中に日本神話のひとつの源泉である南九州を訪れ、そのアニミズム的風土に生きる神話世界の実在感を、西欧的な「神話」と「歴史」の断絶に比して賞賛しています。
我々日本人はしかしながら、戦前の右翼的思想のよりどころとされた日本神話を、それへの極端な反動から公式に捨て去ってしまいました。古事記や日本書紀に書かれた神話あるいは歴史は、天皇家の正当性を主張するためだけに書かれた政治的文書以外の何者でもないという立場から、事実、教科書からは、いなばのしろうさぎや海幸彦、山幸彦に代表される豊かな神話物語は放逐されてしまいました。
多くの文学者や知識人は、このような文化的退行への警鐘を鳴らし続けてきたわけですが、今回梅原猛は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」にて、日本神話の中で最も批判を受けやすいニニギノミコトから神武天皇にまつわる神話体系(現在の通説は神武天皇から始まる初期天皇は後代の作為によるもので、実在ではないというもの)のふるさとである日向の地に赴き、地方伝承や遺物を実際に自身で参照し、氏特有の物語的方法論により、神話の再構築を図ろうとしたのです。これはまさしくレヴィ=ストロースへの彼なりの回答でした。
その変わらぬ挑戦的な姿勢とはうらはらに、本書にはカラー写真がふんだんにちりばめられ、「ふたつの高千穂」は2千年前から変わらないのではないか、と思えるほど実在感を感じさせる紀行文となっています。出雲系神話に比してあまり語られることのない日向系の神話がまるで今見てきたかのような臨場感で感じられるのは、梅原猛の手腕もさることながら、日向の土地がもたらす豊かさゆえかもしれません。
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