2000年前の平壌

歴史

昨日は僕が所属する「考古学を科学する会」の親会である「東アジアの古代文化を考える会」の講演会を聴講しました。議題は楽浪郡の統治戦略に関するもので、専修大学の高久先生による講演でした。

前漢によって設置された楽浪郡は卑弥呼の時代以前から倭国との交流が後漢書、魏略、魏志倭人伝などに記録されており、漢、魏の統治戦略は邪馬台国論争における重要な論点のひとつなのです。邪馬台国論争はさておき、今回興味深かったのは楽浪郡と帯方郡があった現在の平壌付近の遺跡と出土品でした。現在、その国家状況が毎日のように伝えられる平壌の2000年前に存在した城や墓の後がスライドで紹介されました。

↓これは平壌付近の土城の遺構。

↓楽浪郡は朝鮮半島の統治のため漢が設置したのですが、北朝鮮では案内板の後半のように楽浪郡は古朝鮮の継承国であり、中国に統治はされなかったとされています。ちなみに案内板の最初の部分は国家主席に対する賛辞だということでした。

↓これは帯方郡のお墓。

↓これはお墓の内部。中国ですたれた木の郭がこの地方では長く使われたようです。左の男性の木棺のそばには剣が副葬されていました。

↓これは出土した黄金のバックル。バックルなので小さいのですが、恐るべき精密さで大小の竜などの彫刻がされています。

↓興味深い金印の比較。左が志賀島の金印で右が中国で見つかった金印。鈕が蛇と亀の違いがあるものの、中央の金印と比較すれば王のフォントがそっくりなのが分かります。同じ工房で作られたもののようです。

2000年前には金印を載せた船が海を渡るなど半島と日本列島には広い交流があったのに、現在は予告なくミサイルが海を飛び越える関係となった事には感慨を禁じえません。

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