専門家の劣化

さようなら大江健三郎

池田信夫氏のコラムには、問題の捉え方として学ぶべき所が多い。今回は最後のウインストン・チャーチルの言葉が出色だ。

ところで最近専門家というものが頼りにならない。このブログでも何度か述べたが、例えば放射能の危険性について、過去のデータと必要なら統計理論を駆使して一定の結論を出すのが専門家の役割というものだ。具体的には、どこまでが許容可能な放射能のレベルかは、専門家が提示しなければならない。

しっかり責任を果たしている専門家もいるが、彼らにはその内実にかかわらずメディアによって「御用学者」のレッテルが貼られる。従ってほとんどの専門家はだんまりを決め込む。そして放射能は全て危険だと叫ぶ学者が脚光を浴び、時のヒーローとなる。

だが、僕に言わせれば、そのような学者の意見を聴く価値はほとんどない。なぜなら、前提条件に関わらず結論が同じなので、得られる情報量がゼロだからだ。これはシャノンの情報理論を持ち出すまでもなく、コモンセンスの問題である。

僕は別に原発を推進しようと思わないし、この状況で新たな原発を作ることは現実的でないと思う。だが、原子力というものを絶対的な「悪」として社会から除去するような傾向は、少しヒステリックに過ぎるし、なにより「悪魔狩り」の香りがする。

僕は昔のSFを読んだり、SF映画を見るのが好きなのだが、それはそれらに過去の希望、夢が込められているからだ。先日もイギリスの懐かしいTVシリーズ「サンダーバード」の第1話と2話が收められたDVDを借りて見た。第1話は爆弾が仕掛けられた英国の超高速旅客機をサンダーバードが助ける話、第2話はジャングルで活動中の米軍のロボット移動体の危機を救う話だった。共通するのは、それらの近未来の乗り物がいずれも原子力推進だったことだ。

そして第1作の原子力推進の旅客機の最初のフライトの目的地が、実は日本だったことは意味深い。その頃、日本という国は原子力と共に科学の夢の一部を形成していたのだ。

しかしもう、小説や映画におけるテーマとして原子力に夢が託されることはないだろう。

だが、科学の最先端の分野ではこれからもひとつのオプションとして原子力は使われ続ける。はやぶさは革新的なイオンエンジンを搭載したが、これが太陽系外の探査を視野に入れた計画となると、やはり寿命という点で原子力が最も有力なオプションとなる。1977年に相次いで打ち上げられたボイジャー1号と2号は、いずれも原子力電池を搭載し、いまだに航行を続けている。

僕はこのような探査計画をすばらしいことだと思うが、反原発論者はそれらを宇宙を汚すものとして非難するのだろうか。

 

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