過失としての「チェルノブイリ」

「福島はチェルノブイリにも広島にもならなかった」高田 純

昨年の4月に僕は池田信夫氏のブログを読んで、もし氏が正しければ「20年後日本は別の意味でチェルノブイリを繰り返したと言われることになるだろう。」と書いた。別の意味でとは、不必要な長期的かつ大規模な広域避難により、住民の精神的、肉体的安定を破壞してしまうことだ。このような人為的過失が実際の放射能汚染よりはるかに悲惨な結果を生んだことが、正にチェルノブイリで起こったことだった。

その時点では僕は、池田氏の見解「微量放射線は人体に影響がない」という説に、半信半疑だった。だが、その後色々と調べていくと、100mSV以下の微量放射線が人体に影響を与える科学的根拠はないことを、確信するようになった。今では例えば「放射能は怖いのウソ」「放射能のひみつ」などの本が出版され、誰でも放射能というもののリスクを正確に把握できるようになっている。

問題は、未だに福島レベルの微量放射能が危険だと喧伝して恥じない一部の(科学者とは言えない括弧付きの)学者と、これらの「学者」を動員して最高のネタとしての「放射能リスク」の存続を図るマスコミである。未だに瓦礫の受け入れを拒否して恥じない自治体が多いという事実が、彼らの戦略の成功を物語っている。

高田氏の記事に明らかなように、(菅直人元首相の暴走はあったにせよ)放射線の拡散という面で、福島の放射能リスクはチェルノブイリの比較にもならない程小さい。現在の優先順位は、「別の意味」のより大きなリスク、つまり広域の避難状態をすみやかに解消することだ。さらに不要な除染に費やす「兆」という単位のお金があるなら、(これも日本が破産し被災者を助けられなくなるリスクとの兼ね合いだが)すみやかに被災者に還元すべきだろう。

繰り返すが、現実の放射能としてのリスクは、既に考慮する必要がないほどに低い。だが、過失としての「チェルノブイリ」は、被災者に現実の苦しみを今も生み出し続けている。

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