杉浦茂 自伝と回想

アート

どうやら僕は脳天気でハチャメチャな絵が好きらしい。僕のお気に入りの長新太の絵本には卓越したナンセンスと独特の色彩があった。杉浦茂の漫画もハチャメチャとナンセンスでは負けていない。そして長と同じように、数多くのアーティストに影響を与えてきたことも同じである。

でも長新太と異なるのは、杉浦茂の魅力は著名な評論家さえうまく語ることが出来ない、ということだ。杉浦は唯一無比で記述不能の存在なのだ。

その訳を僕なりに考えてみた。ひとつは、杉浦が物語に依存しない作家だということだ。もちろん、杉浦は児雷也や猿飛佐助など、有名なストーリー、有名な主人公を使っている。でも多くの場合、それは物語が場面の転換の呼び水となるからであり、物語が必須の要素ではない。世界はひとつの画面で常に完結し、登場する人やモノ達は画面の中の関係性だけで生きている。

もうひとつは、杉浦の漫画世界は、大人の侵入を決して許さない絶対的な子供の帝国だということだ。杉浦の世界には大人の世界で起こる映画や事件が、ごく普通に現れる。でも大人の事件は杉浦によって注意深く変容され、子供によってしか見ることの出来ない世界が立ち現れる。杉浦茂の世界は、物事が物語や論理で文節される以前の世界であり、そこでは大人の時は止まっているのだ。杉浦茂が作り出す様々なキャラクターが、常に物理学を無視したような姿、恰好で現れるのも、物理学がまだ機能しない原始の時間だからだ。

アートという観点から見れば、杉浦はルソーに代表されるような素朴派に分類されるだろう。事実、この本に写真が出ていた帝展入選作は、彼が洋画家から漫画家に転身する直前に描いたものだが、ルソーがパリを描いたいくつかの作品に極めて近いように感じられる。ひとつ違いがあるとすれば、素朴派やいわゆるナイーブ・アートが、時に普通の人が見れない世界を垣間見せる戦慄を伴うのに、杉浦の絵にはそれが全く現れないことだ。

杉浦茂は生涯、子供の世界から一度も出ることはなかった。彼は単にその帝国の永遠を写し取ったのだ。

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