隠された物部王国「日本(ヒノモト)」

いつのまにか年が明けてしまいました。今年も読むぞ!ということで、まずは大好きな古代史関係の本。

谷川健一のこの本、日本の先住民族の長としての物部氏について考察を行ったものです。これって邪馬台国の場所の議論と深い関係があるのですが、谷川もまたほとんどの在野の研究者の例に漏れず、邪馬台国九州説です。そもそも文献学的には邪馬台国が近畿にあるというのはあまりに無理があると思うのですが、考古学の世界ではまだ近畿説が幅をきかせています。

以前から批判しているとおり、僕は日本の考古学を科学と見なすことが出来ません。方法論的な問題もさることながら、いまだに東大系のほとんどの研究者が九州説、京大系のほとんどの研究者が近畿説なのですから、これはもう東大流家元と京大流家元の争いのようなもので、科学としての議論に耐える状態ではありません。

ですからどうしても好んで読むのは考古学的書物より、谷川のような文献学的なアプローチの書物を、ということになります。谷川はここで、物部氏が倭の東遷に先立って北九州から大和に移動したとの仮説を提示します。書紀などにニギハヤヒが神武天皇に先立って大和に降立っていた天孫族の一員であったという趣旨の記述が見られるのですが、谷川の主張は、ニギハヤヒを首長とする物部氏が、九州の筑紫平野から大和に2世紀頃に移動し、蝦夷の長であるナガスネヒコと共存していた。そして彼らを屈服させたのが、同じく九州から4世紀に東遷した神武であった、というものです。

谷川が提示するのは、征服者としての「倭」、日本の古来の宗教権威としての「物部」、それから大和朝廷に長く反抗を続けた土着民としての「蝦夷」という構造です。

ちょっと疑問に思うのが、それでは物部と出雲との関係はどうだったのかということです。記紀におけるスサノオ=「出雲」対アマテラス=「大和」の構造と、谷川の示す構造とはどういう関係にあるのか。これについて、この本では何も触れていませんが、当然説明されるべき問題だと思いました。

話は変わって、3日に東京都現代美術館に行ってきました。昨年の正月明けも深川資料館の見学を兼ねて現代美に行ったのですが、今年もブラジル美術関係の企画展はスキップして、無料の常設展を覗いてきました。

新収蔵作品を中心とした展示だったのですが、面白かったのは、ヤノベ・ケンジのマンモスを主題とした展示とビデオです。とにかく彼が乗っていたハイエースを解体して作り上げたというロボットのマンモスの存在感が際立ってました。元々は愛知万博のために作られたコンセプトデザインで、巨大なロボットマンモスが環境を破壊しつつ愛知を闊歩するという無茶なプロジェクトで、結局主催者の意向にそぐわずに没になったものです。規模はかなり小さくなりましたが、物としての迫力は素晴らしかったです。それはもう、隣の大竹伸朗の作品「ゴミ男」が色あせて見えるほど、圧倒的な存在感でした。

展示会ってひとつ面白いというものがあれば良いと思うのですが、今回は確かにひとつ際立ったものがありました。ヤノベ・ケンジ恐るべしです。

コメント

  1. Mr.X より:

    こんばんは 
    今年も明けました。
    年を取るにつれ時間が早足で去っていきます。
    またすぐ師走の風が吹く事でしょう。
    耶馬台国の議論は面白いですね。
    私の子どものころは地元なので九州説しか聞いていませでしたね。
    そもそも、金印が何故志賀島から出たのか?
    そこがカギだと思いますが、如何でしょう。
    今年も宜しく。

  2. artjapan より:

    こんばんは。

    今日は雨ですが、明日の山歩きの準備をしています。

    金印ですが、1世紀に奴国に送られたと後漢書に出ており、その奴国は博多のあたりだったことはほとんど間違いありません。3世紀頃の邪馬台国とは時代が違いますが、後の三国志の魏書に出てくる邪馬台国に連なる小国のひとつだと考えることは自然なことだと思います。

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