演劇入門

平田オリザの「演劇入門」(講談社現代新書)

アートの本はいろいろ読んできました。アーティストが書いたもの、評論家が書いたもの、哲学者が書いたもの。でも考えてみればそれらのほとんどは、絵画に関するものでした。そこで今回は平田オリザの「演劇入門」を読んでみたのですが、久々に眼から鱗が落ちるような読書体験でした。

平田の最初の指摘は、近代の演劇がテーマが重要だったけど、現代の演劇はそうではないということです。ひとつには現代が大きな物語を喪失してしまったこと、そしてもうひとつは演劇の役割が変化してしまって、単純な主義主張を伝えるための有効なメディアではなくなったことです。もはや現代演劇は単純な意味でのメディアやプロパガンダの手段ではない。このことの徹底した認識から現代演劇は出発するのです。じゃあ伝えるべきことはないのかという問いに対して、平田はこう答えます。「伝えることなどどこにもないが、表現したいことは山ほどあるのだ」と。

この土台の元に。平田は演劇創作のプロセスを極めて理知的に明らかにしていきます。平田が常に問いかけるのは、演劇におけるリアルとは何か、そしてはそれは現実のリアルとどこが異なってるのかということです。

良くあるだめな演劇では台詞が説明的にしか感じられません。現実の日常の世界では、互いに持っている情報に差がない人(例えば夫婦)の間の「会話」には、説明すべき冗長性がなく、それでは観衆が人間関係も物語の背景も分りません。観衆が物語を把握するためには、会話ではなく「対話」つまり内部の人間同士の話ではなく、内部と外部の対話が必要です。つまり内部と外部の境界における情報の差が自然な会話をつくることになります。

従って、重要なのは内部と外部の境界的状況を自然に設定することであり、そのような場面が無理なく設定できて初めて、登場人物が物語を語ることが可能となるのです。

平田は日本における演劇の基本的な問題として、日本社会の歴史的特徴としての「他者の不在」を言います。日本は、生まれてから死ぬまで他者と出会わない社会なのではないか?

平田は日本で始めて漱石がこの意味での「対話」を描いたと指摘します。そして彼が何度となく読んだのが、「三四郎」だと。そういえば僕が始めて三四郎を読んだときに、演劇論的な分析は何一つできなかったにもかかわらず、ただひたすら「うまい」と感じました。平田がいうように、漱石のうまさは、ひとつには自然な対話を可能とする場面設定の巧妙さにあるのでしょう。

とにかく平田の演劇論は、絵画中心に偏って知識化された僕にはとても新鮮でした。平田の演劇を一度見てみたいです。

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