広告の誕生

最近はほぼ2日に1冊ペースで本を読んでます。

今回読んだのは北田暁大の「広告の誕生」(岩波書店:2000年)です。

北田暁大は、東浩紀と共にポストモダン系社会学者として名を上げてきた人です。東浩紀は何冊か読んできたのですが、これまで北田については、WEB上の評論しか読んだことがなかったです。でもそのいずれの評論も切り口が鋭く感心していました。

この本は、彼の出世作らしいのですが、期待通りとても面白かったです。でもポストモダン系のひとって、使う言葉が難しいのが難点ですよね。北田も例に漏れず、どうみてももっと分りやすく書くことが可能なのに、普通使われていない言葉で書くことで、権威性を付加しています。

これもポストモダンのお約束のようなもので、慣れれば別になんということもなく、普通に読めるようになるのですが、修辞の作法は内田樹や土屋賢二を見習ってほしいです。

それはさておき、この本は日本において広告が誕生する有様を、ベンヤミンの思想を手がかりに考察するという内容です。そして北田の考察は江戸から始まります。江戸の戯作者である山東京伝の「引き札」が果たして広告だったのか?というような問いかけから、江戸の劇場的で、カーニバルのような混沌とした非ジャンル的なメディア空間を、描き出します。つまり北田の主張は、江戸においては広告というコードが未分化であったのであり、したがって現代的な意味での「広告」が始まるのは、明治以降ということになるのですが、ここに思いがけず、岸田吟香が登場します。

このブログで、うらわ美術館で岸田劉生展を見た時に僕が最も面白かったのが、岸田劉生の父親が販売していた目薬のボトルとその効能書きの展示だったと書いたことがあります。その父親こそ誰あろう、北田が明治における広告誕生のキーパーソンとして考察を行った岸田吟香だったのです。

岸田吟香ってたぶん、北田が取り上げる以前から広告の歴史における大立者だったのでしょうね。つまりメディアの歴史にかかわる人物だったからこそ、メディアのひとつである岸田劉生の絵画展示会で父親が販売した目薬の展示があった。そういう構造に北田の本を読んで気づいたということです。

ということで、北田の社会学的知見もさることながら、メディアの蜘蛛の巣のようなつながりを楽しんだ次第です。

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