コズミック 流

僕は最近の社会学者では東浩紀と北田暁大に注目してきたのですが、昨日の日経にもポストモダンを問い直そうとするこの二人を中心とした最近の日本の思想状況についてのコラムがありました。

ポストモダンという思想状況は既に流行が去って久しいと言われているのですが、東や北田らは、「大きな物語」を喪失したポストモダン的状況は日本社会でむしろより深く進行しているといいます。彼らは社会を分析するツールとしてのバルト、フーコーあるいはダリダらの思想は今も有効であるという認識から、その復権あるいは再構築を試みているのです。

東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」は以前このブログでも取り上げたのですが、その中に現代のポストモダン的状況を象徴する作家として清涼院流水が取り上げられていました。東がゲーム的リアリズムとして興味深い分析を行ったこの作家に興味がありつつも、その作家手法があまりに荒唐無稽という批判があるため、ちょっと二の足を踏んでいたのですが、昨週図書館でミステリーを探していたときに、彼の処女作である「コズミック」を見つけてしまいました。

ということで今回読んだのは、「コズミック」の前編である「コズミック 流」ですが、1200人の殺人予告といい、次々と荒唐無稽な密室殺人が展開される構成と言い、前編を終わった段階では予想していた通り「???」という印象です。しかもこの小説の正しい読み方は、まず、「コズミック」の前編を読んで、次に「ジョーカー」という彼の別の小説の前後編を読み、最後に「コズミック」の後編である「コズミック 水」を読むことだというのですから、それはちょっと勘弁して欲しいという感じです。

しかし、この作家の影響で舞城王太郎などの才能ある作家が誕生したということもあり、社会学的興味からも「コズミック」だけは後編も読もうと思ってます。

でもその前に面白そうなノンフィクションを数冊仕入れてしまったので、清涼院流水に戻るのはそちらを読んでからにします。

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