最近読んだ本:
・「法隆寺の謎を解く」/竹澤秀一(ちくま新書)
・「図説 遠野物語の世界」/石井 正己(河出書房新社)
「法隆寺の謎を解く」は、法隆寺を建築学的な観点と、仏教の源流としてのインドの影響の観点から読み解く試みです。また、僕がそもそも古代史に興味を持つようになったきっかけである、梅原猛の「隠された十字架」で提示された仮説「法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるために建てられた」に対する挑戦の書でもあります。
法隆寺は文献上も、また発掘で明らかなように火災に見舞われており、現在のものは再建であることは明らかです。これまで、法隆寺は火災の後、(かって再建説と激論が交わされたされた非再建説は別として)敷地が重なる形で再建されたということがいわば常識だったのですが、竹澤秀一の新しいところは、再建は火災と関係なく別の意図の下に実施されたのではないか、と推理したところです。
天皇家が当時天皇家と対立する関係にあった聖徳太子一族が皆殺しにされた記憶を消し去り、厩戸=聖徳太子の名声を利用してそれを普遍的な仏教信仰へと昇華させることにより、逆に天皇家の権威をゆるぎないものにする。そのために、聖徳太子一族の私寺であった法隆寺が、公的な寺として再建されたのではないか?
竹澤秀一の法隆寺の回廊や伽藍の配置に関する分析はさすがに建築学者ならではのものがあります。またインドを旅して仏教の源流を探った経験のある筆者は、法隆寺の建築にインド仏教の直接の影響を見ています。
梅原猛が作者論的に法隆寺の中へ、中へと入っていくのに対し、竹澤秀一はアジアとのかかわりというコンテキストの中で、法隆寺の外部空間にその本質を見ようとしています。
竹澤秀一の議論はおだやかで、かつ理性的です。法隆寺の伽藍の配置に関する分析も十分説得力があるものです。でも、正直言ってその最後の結論は、どこか中途半端に終わっている感じがします。
それは多分、彼が法隆寺に仏教の世界宗教としての側面を見たが、怨霊に支配される日本の基層的宗教観の影響を見なかったことにあると思います。それは、梅原猛がその法隆寺論でもうひとつの論点とした、あの恐ろしげな(と僕には感じる)容貌をした救世観音に触れてないことからも明らかです。
中門の柱が怨霊の封じ込めのためであったかどうかは、議論の余地がたぶんにあると思います。しかし、中門の柱や救世観音において梅原猛が直感した寺の内部に漂う不気味な気配こそは、法隆寺の謎と深く関わるものだという点について、僕は疑いを持っていないのです。
コメント
ちくま新書の武澤秀一『法隆寺の謎を解く』はすばらしい著作と思いました。インドのフィールドワークに基づく斬新な観点から鮮やかに長年の謎を解き明かしてくれました。梅原説の地盤を崩した快作と思います。
「空想」氏が感じておられるもやもや感は、最初から怨霊を前提としているからではないですか?
武澤氏は中門の柱を論拠とする限り、少なくとも法隆寺には怨霊はそぐわないといっているわけで、それは至極真っ当で説得力にとんでいると思いますよ。じっさい、和辻も感動したというあのすがすがしい回廊に囲まれた聖域は怨霊とは無縁でしょう。
基層信仰に流れる霊魂観と、奈良時代末期以降平安時代に蔓延した怨霊をいっしょくたにしないことが重要なのでは?
すがすがしい空間さん
コメントありがとうございます。ご指摘の部分は、現在の揺れ動く梅原説に対する反証として的確なところだと思います。
直接の反論にはならないかもしれないですが、僕が思うことは、宗教が時の権力と結びついてその宗教的権威を広げていった背景は政治的で多分にどろどろとしたものだったと思います。一方寺、神社、仏像、等の当時としての信仰の礎を自らの手で作り出してきた建築者、彫刻者達の心持は多分に真摯なものであり、かなり異なっていたと思うのです。
法隆寺はそのような信仰、意思、思惑の混交の中で建造されていったのであり、偉大な宗教建築の背後に潜む権力意思の影響を幻視したものが梅原の著作であると思うのです。
尚、もうひとりの偉大な幻視者、和辻の「古寺巡礼」に対するいまさらながらの感想は次のブログに書くつもりです。
早速の応答、ありがとうございます。
>宗教が時の権力と結びついてその宗教的権威を広げていった背景は政治的で多分にどろどろとしたものだったと思います
武澤氏の『法隆寺の謎を解く』では、それを厩戸に対する天皇家によるほめ殺しと総括しているわけですね。けっして政治的どろどろを見落としてはいないです。建築から出発して、政治的背景まで到達しているのは、なかなかの眼力と私は敬服しました。
>寺、神社、仏像、等の当時としての信仰の礎を自らの手で作り出してきた建築者、彫刻者達の心持は多分に真摯なものであり、かなり異なっていたと思うのです。
私もお説にまったく同感です。
ただ、圧倒的に力関係が違うことを認識すべきでしょうね。そうした関係のなかで、多くの葛藤があったことでしょう。時に依頼者を裏切ってでも、ということもあったかもしれません。
しかし、あの本にもありましたが、当時の権力者は大変な美意識の持ち主でもあった、つまり文化も大きな権威を形成していたことを見落としてはいけないでしょうね。政治も宗教も建築も仏像も歌舞音曲も、すべて権力のパフォーマンスであり、これらを分けて考えるのは近代以降の認識方法です。
当時の天皇や有力豪族は大変な文化的体現者でもあり、今の政治、文化、芸術、思想、宗教の分立状態地とはまったく違うのであり、今と同じように思ってはいけないのではないでしょうか?
>偉大な宗教建築の背後に潜む権力意思の影響を幻視したものが梅原の著作であると思うのです。
偉大な宗教建築の背後に潜む権力意思の影響をみる試みは大いに結構なのですが、それが法隆寺に当てはまっているのかどうか、が問題なのではないですか?